熊本県・黒川温泉と聞けば、今や全国区の知名度を誇るまでになった人気温泉地。
鉄道も通っておらず、高速道路のICからも遠く、お世辞にもアクセスはいいとは言えないこの地が、注目を浴びるようになったのは、1986年(昭和61年)頃から。
それまでは、半農半宿の状態で、平日など客がいるほうが珍しく、週末でも満室になるようなことも滅多にないほど、忘れられた温泉地であった。
ところが、急浮上のきっかけを作ったのが「入湯手形」だ。
これは、日帰りで各旅館の露天風呂めぐりができるというもので、温泉好きの九州人のハートをがっちり掴んだ。
それから、各マスコミが取材に押しかけ、世の中がバブル経済がはじけ、低迷期になろうとも1993年(平成5年)には、その人気は不動のものとなる。
それから、ほとんどの宿が、週末はもちろん、平日も連日満室の状態が続いた。
そして、一番のピークというべき黒川温泉ブームは2001~2003年(平成13~15年)頃に訪れる。
宿泊客と日帰り観光客が入り乱れ、昼間は静かな温泉地というイメージとはかけ離れた時代でもあった。
最近は、その時から比べると客足は落ち着いたように見えるが、それでも周辺の温泉地から比べると、羨ましいほどの集客力を誇っている。
いや、現在が非常にいいバランスを保っているようにも見える。
それは、やはり温泉街全体が、懐かしさすら覚える鄙びた山村の集落に見えるから。
都会から来る旅人は、その風景に身を投ずることによって、癒しを感じるのであろう。
湯宿が建ち並ぶ狭い路地を歩けば、そこには都会の喧騒を忘れさせてくれる空間があり、目で見るもの、肌で感じるもの、耳で聴こえるものすべてが、なぜかココロを落ち着かせてくれるのだ。
黒川温泉の旅館は、比較的大きな建物は見当たらない。10室前後の小規模な家族経営の宿が多い。
旅館によっては、大きな岩を配した広大な露天風呂や、洞窟風呂など個性的なお風呂で客を楽しませてくれる。家族風呂(貸切風呂)が多いのも特徴だ。
割合としても、一人1万円台半ばの料金の宿が多く、そのリーズナブルさゆえ、人気を博しているのが良く分かる。
その温泉街の中心にある人気宿「ふもと旅館」が、古い宿を前オーナーから引き継ぎ、2002年(平成14年)にリニューアルオープンさせたのが、「旅館こうの湯」なのだ。
黒川の中心エリアから少し離れた場所にあるせいで、閑静な環境も素晴らしいが、この宿はワンランク上の寛ぎを提供してくれている。
全9室が、フロント棟から外気に触れながら回廊を通ってアプローチするという「離れ」形式の宿で、しかも「源泉かけ流し」の「客室露天風呂」が付いているというから贅沢そのもの。
そして、今風のデザイナーズ旅館路線に走るのではなく、木造建築と素朴な家具調度品など黒川温泉らしさは残っており、幅広い年齢層に支持される要素が凝縮しているのだ。
温泉街の中心地にあるお宿は、比較的標準的な客室が多い中で、次世代の「黒川温泉」を彷彿とさせるのが「旅館こうの湯」と言えるだろう。
部屋は、2階建てのメゾネット型客室と、平屋の造りと大きく分けて2通りとなるが、いずれも快適な空間が用意されている。
結婚記念日や誕生日など、アニバーサリー的なイベントでこの宿を利用する客は多い。
そこには、なぜか落ち着く雰囲気と、それでいて上質で非日常的な空気感がバランスよく混じり合っているからに違いない。
「旅館 こうの湯」で使用している源泉は、敷地内で湧出している自家源泉。
全客室に設けられている浴槽と、男女別大浴場、すべての浴槽で源泉100%かけ流しだ。源泉かけ流しとは、加水や加温をせずに、湧出した源泉を浴槽に注ぎ、溢れた分はそのまま捨ててしまう贅沢な湯使いのこと。
贅沢ではあるが、温泉が持つパワーをそのまま最大限享受したい方には、温泉はかけ流しに限る。
源泉かけ流し方式の場合、衛生的に入浴するための基準として「1人あたり毎分1リットル以上」の湧出量が必要とされる。
入浴すると、やはり一定の割合でお湯が汚れていくので、その汚れがきちんと溢れた源泉と共に流れ出て、浴槽内のお湯が入れ替わることが大事なのだ。
ここの湧出量は定かではないが、浴槽に注入される源泉量を見る限り、大変湯量豊富であることがわかる。豊富であるからこそ、全浴槽で源泉100%かけ流しを実現できているのだろう。
このような、地下から湧出する温泉を、一切手を加えず、純粋にかけ流しにしている温泉(旅館)は、日本全国規模でみても、全体の1%と言われている。
それだけ、この温泉は貴重であり、「旅館こうの湯」の最大の魅力でもあるのだ。
泉質は「ナトリウム・カルシウム―炭酸水素塩・硫酸塩・塩化物温泉」。
泉質名としては長いが、要するに色々な成分がバランス良く含まれているということである。一つずつ説明していこう。
炭酸水素イオンは、ナトリウムイオンと結合して、肌表面の汚れや不要な角質を、石鹸のように洗い流してくれる効果がある。クレンジング効果があるので湯上がりには肌がさっぱりするだろう。
硫酸イオンは、カルシウムイオンと結合して、肌の新陳代謝を高める効果があるとされる。炭酸水素イオンで肌の余分な角質が取れたところで、新陳代謝を活性化させるので、美肌効果はとても高いと考えられる。
塩化物イオンは、ナトリウムイオンと結合して、肌をパックしてくれる。このパックが汗腺(汗を出して体温を下げる器官)を塞ぐので、入浴中から高いポカポカ感を得られるだろう。そして塩化物イオンには肌の殺菌作用もあるので、切り傷など肌表面のトラブルを広く抑えてくれる。
泉質名に現れてはいないが、「メタケイ酸」という成分も豊富に含まれている。
メタケイ酸とは天然の保湿成分と言われ、一部の化粧品に使われることもある。入浴後には肌のしっとり感を得られるだろう。
この温泉はただの美肌の湯ではなく、保湿までしてくれる美肌の湯なのだ。
このように豊富な成分を含みながらも、pH値は6.4で中性。つまり低刺激性なので、敏感肌や乾燥肌など、肌が弱い方も安心して入浴できる。
老若男女問わず、安心して入浴できるので、例えば三世代での温泉旅行としてもここはオススメだ。
「黒川温泉」の旅館料理と言えば、「馬刺し」「肥後牛」「岩魚の塩焼き」・・・などが定番とされていた。
その素朴ながらも、新鮮な素材を使っての料理はファンが多い。
しかし、「こうの湯」の料理は、少し違う。
極上の素材はそのままに、ひとひねりした献立が用意されている。
例えば「馬刺し」を「馬肉のたたき」に、「肥後牛」を「しゃぶしゃぶ」に、そして「岩魚」を「田楽みそ焼き」で出したりと、一味違ったメニューとなる。
極めつけは「本日のひとくち」。
スプーンに載せられる素材は、一度口にいれると、複雑にそれぞれの素材が絡み合い、最後には何ともいえない余韻を残す。
季節によってその素材は変えられ、常連客にとっては楽しみのひとつとなっている。
このように、和風一辺倒ではなく、洋のテイストも加味した創作料理の意味合いもあるようだ。
当然、盛り付けも考えられている。
どちらかと言えば男性的な献立が目立つこの黒川では珍しい女性的な料理が際立つ。
味ももちろんだが、目でも楽しめる料理が多いのだ。
お皿がそのままキャンバスとなり、それぞれの持ち味を出し合って、鮮やかな印象を与えてくれる。
野菜も忘れてはならない。基本的に地元の農家が精魂込めて作られた野菜を使い、その新鮮さは味わってみれば分かるはずだ。
料理全体を見れば、他のお宿と比べても野菜が比較的多く使われているようだ。
旅行というものは、移動するもの。
疲れているはずだから、少しでも胃の負担を減らそうとの考えもあるという。
なんとも、客本位で考えられているようで嬉しくなる。
基本的に「遠くの名産より近くの採れたて」がこの宿の考え方なのだ。
この宿のスタッフは、比較的若い人たちが多い。
だからだろうか、活気があって心地いい。
その陣頭指揮にあたっているのは、松﨑社長の長女である祐子さん。
若女将として日夜奮闘している。
夜遅くまで、宿にとどまり、常にお客の世話やきをしている。
そんな若女将にこんなエピソードがある。
ある冬の日の夕方、宿の入口でおばあちゃん達三人組が歩き疲れて道端に座り込んでいた。
話を聞くと、おばあちゃんは「18:30のバスに乗らなきゃいけないんだけども、バス停がどこだかわからない」と言う。
実は、そこからバス停はクルマでも5~6分はかかるところ。時計はすでに18:20を回っていた。
若女将はすかさず「クルマで送りますよ!」と言うと、おばあちゃんは「お宅の宿の客でもないのにいいの?」
「何を言っているんですか。黒川温泉のお客じゃないですか!」と言うと、若女将は自ら宿のクルマを用意してバス停に急いだ。
車中、「あんたのことを天女に見えたよ」というおばあちゃんの言葉に、若女将に笑みがこぼれた。
数日後、宿の一本の電話が入った。その声はあのおばあちゃんの一人だった。
「あんたに黒川温泉のおすすめ宿を聞いたら自分の宿の事を言わなかったね。その事が気に入った。絶対、今度あんたの宿に行くからね~。」
若女将は電話を切ったあと、嬉しくて涙が止まらなかった。
大変な仕事だけれど、こんな幸せな気持ちにさせてくれる旅館業というのは、改めて素晴らしいと感じたという。